⚠注意: 自殺や自傷行為に関する表現が含まれています。

『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars- IV ルヰ×シン×Unknown』を見たのは、水戸の映画館だったと思う。確かよく晴れたお天気で、お昼ごはんにミスタードーナツでさくらもちドーナツというかわいいドーナツを食べて、映画を見る前はわくわくしてハピなるな気持ちだった。でも、ルヰくんの切ないプリズムショーの後、あのシャインのショーを見たとき、私は完全にあのキンプリ世界の中にいて、あの赤黒い血の流れるような会場で、シャインのショーを体験してしまっていたの。

プリズムショーで、プリズムスタァのみんなの心が煌めいているプリズムジャンプを見ると、本当に幸せな気持ちになる。けれど、あのショーでシャインの体の動きや眼差しに真っ直ぐ見つめられた私は、怖くて怖くて仕方がないのに、心が縛り付けられたようにシャインから目が離せなくなってしまっていた。

シャインの体が表現する一挙一動が不気味で恐ろしかった。自身の首を刺すような動きに自傷の苦しみと絶望を連想させられた。なのに、シャインは笑っていた。

シャインが1つ1つのプリズムジャンプを跳ぶごとに、幸せとは正反対の強い真っ黒な愛情で、深く深く心を抉られ続けているような気持ちになった。この感覚を同じように経験した人がどのくらいいるのかわからないけれど、煌めくプリズムジャンプが与えてくれる幸せが大きなポジティブ(+)の値なら、シャインのプリズムジャンプは、それをネガティブ(−)に反転させたような強い感情を引き起こさせられるような感じだった。

怖くて絶対に嫌なのに、縛りつけられて動けなくされて、蕩けるような愛で無理やり柔らかくさせられた心の奥深くに、歪んだ愛情を強引に注ぎこまれ続けているような、絶望的な経験だった……。

みんなシャインのプリズムショーを「DVショー」みたいに呼んでいたと思うけれど、たぶんそれは的を射た表現で、私もそこで実際に擬似的なDVのような体験をして、心に傷を負わされてしまっていたのだと思う。

シャインのプリズムショーを経験したレオくんが恐怖で震えていたけれど、レオくんには共感しかなかった。私もまったく同じで、本当に怖くて仕方がなくて、泣きながら現実に手や体の震えが止まらなくなっていたから。1

あまりにも怖かったから、途中でシアターから出ることさえ考えた。それで、シャインのプリズムショーの後、セプテントリオンのショーが始まったけれど、目には映っていて、7つの誓いが聞こえているいるはずなのに、そのままずっと心に刻まれた恐怖は全然消せなくて、まるでガラスの向こうの遠くの出来事を観ているように感じていた。煌めきを感じることはほとんどできなくて、映画の最後までずっと恐怖が残って消えなかった。

性暴力を受けてしまった人とかが、自分の心を守るために目の前の受け入れがたい現実から自分の意識を切り離してしまう心理学で「解離」と呼ばれているものがあるけれど、今思うと、その時の私の心に起きていたのも、解離だったのかもしれない。

映画館を出ても、ぐちゃぐちゃにされてしまった心を落ち着けることなんてできなかったから、近くの川沿いの遊歩道をしばらく歩くことにした。映画館を出てからずっと、誇張ではなくて本当に「死んでしまいたい」「自分の存在が消えて、強すぎて耐えられないこのつらい感情を消し去ってしまいたい」という思いに捕らわれて簡単に振り払うことができなかった。感情が頭の中で叫んでいるような。

映画館を出てから、頭の中には少し理性的な意識が戻ってきて、その自分もやっぱりまだ感情的な意識から切り離されているようだったけれども、感情を押さえつけるようにして、自分の体を遠くから動かしているように感じていた。

私自身には昔から希死の感情はほとんどなくて、むしろずっと生きていたいと思ってきたような人だったからなんとか大丈夫だったけれど、もしも私が希死念慮が強い人だったとしたら、そのとき感情の勢いで本気で命を断とうとしていた可能性が絶対には否定できない、それくらい深く傷ついて、強い感情に襲われていた。映画館を出た駅前の広場は道路の上に少し高くなっていたから、自分を歩かせながら、もしも手すりから飛び降りたり、下の交差点の走っている車の前に飛び出したら、ただ大怪我をするだけじゃなくて死んでこの苦しみを消せるかなって、頭の片隅で自然に考えてしまっていたから。

あまりはっきりと記憶が残っていないけれど、30分くらい穏やかな道を歩くか動けなくてベンチに座って景色を眺めたことで、少し心を落ち着けることができた。昔のツイートを見ると、その日あと2回映画館で4章を見て、レオくんの煌めきを感じられたらしいけれど、1回目があまりにもショックでほとんど記憶に残っていない。けれど、それが初めてSSS4章を見たときの経験だった。

この経験のせいでプリリズやキンプリという作品が嫌いになったりすることは決してなかった。けれど、その時に意識に強く残された「消えてしまいたい」という願いが、その後、他の悲しみに弱った心の後押しをして、私が「プリズム自殺」と呼んだTwitterアカウントの削除のトリガーになってしまった可能性はあるかもしれない。

Footnotes

  1. だから、0カラットであることが意外だというようなボーイズたちの台詞には困惑してしまった。最初見たときはそんなことを感じる余裕もなかったけれど。マイナスであってもいいくらいこんなに怖くて、それはあまりに明らかなのに、その感情がわかってもらえていないんだって、同じものを同じ場所で見ていても、それくらい感性が隔絶してしまっているんだって、感じてしまうのだと思う。これって、性的な暴力の被害にあってしまった人が、後から他人に「そんなことは大したことじゃない」と決め付けられる状況に似ているかも。もちろん、ボーイズにそういう悪意があったと思っているわけじゃないけれど。